99%のための音楽の本を~僕がフランツ・リストを書いた理由

浦久俊彦 フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか

浦久俊彦事務所・広報担当の成田純子です。
2013年12月に新潮社から刊行された、当事務所代表の浦久執筆による新書『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』は、おかげさまで多くの読者の方々から、おもしろかった!というお声を頂戴しております。ありがとうございます。
そこで、当事務所HP開設を記念して、著者本人からのコメントと、同書に掲載できなかった画像をいくつかUPさせていただきます。ぜひ本と併せて、お楽しみください。

 

こんにちは、浦久俊彦です。
この本を書くとき心に決めていたのは、99%の人々に向けて、その方々が面白いと感じてもらえるように書く、ということでした。世の人々を100%としたとき、純粋なクラシック音楽ファンはおそらく1%くらいでしょう(※この数字はデータに基づいたものではなく、あくまで感覚的な数字ですが)。そして、世に出ているクラシック音楽に関する本の多くは、この1%に向けて書かれたものです。もちろん学術・研究のための専門書や、俗にいうマニア本の存在意義は大いに認めます。でも、初心者向けとか、入門書とか銘打っておきながら、実はごくわずかなクラシック音楽ファンだけを向いて書かれた本も案外多いのです。

この本にとって幸運だったのは、新潮社という伝統ある出版社から、しかも新書で世に送り出してもらえたことです。本が目指したものと、新書という形がぴったりと重なっていたのです。ふつう音楽書の単行本は、芸術・音楽の書棚を持つ大規模な書店に並べられるだけですが、新書だと、駅の小さな書店にも並べてもらえます。新書と単行本では、発行部数の圧倒的な差はもちろん、軽快さ、コンパクトさによって、より多くの人々の目に触れるチャンスが異なります。

この本が世に出るまで、フランツ・リストに関する本は、絶版になっているものを除けば、わずか一冊しかありませんでした。19世紀のピアノ界を代表する巨匠でありながら、驚くことにほとんど知られていなかったのです。ピアノ音楽を語るとき、どうしても外せないのがショパンとリストです。このふたりの巨匠は、音楽史に果たしてきた役割が全く異なります。ふたりを知ることで、19世紀のピアノ音楽がはじめて立体的に見えてきます。日本で絶大な人気を誇るショパンは、これまでも多く語られてきましたが、ショパンの音楽に真の光を与えたのがリストだったことは、じつはあまり知られていません。そのリストを、クラシック音楽ファンだけが理解できる「特殊言語」ではなく、99%の人々にわかってもらえるように、あらゆる細部に工夫を凝らして「ふつうの言語」で書いたのが、この本です。

文章を書くときに何よりも難しいのは、何を書くかよりも、何を書かないかだということを、この本を書きながら痛切に感じました。新書のようにコンパクトさを要求される場合はなおさらです。原稿用紙270枚(※この本の枚数です)で書けることなど、たかが知れています。書きたいことの分量に比して、ごく微量なのです。しかも、あの本で書きたかったのは、フランツ・リストの生涯というよりも、リストの存在を通して19世紀を描くことでしたから、あの分量でどこまで19世紀を凝縮できるかは、とても困難でした。その意図がどこまではたせたかは、本をお読みくださった方々が評価してくだされば幸いですが、19世紀パリ・サロンとは?エレガンスとシックの違いとは?など、音楽というよりも、19世紀の時代背景や文化・風俗のエピソードが、むしろ数多く登場します。これまで、クラシック音楽を敬遠されてきた方にも楽しくお読みいただけるはずです。ぜひご一読ください。

本の内容は、本自身が誰よりもよく語ってくれます。ここでは、紙面に掲載できなかった画像の数々をご紹介してみたいと思います。どうぞお楽しみください。

もうひとつのフランツ・リスト物語~リストの家族、大集合!

フランツ・リストの家族を、肖像画でご紹介します。リスト自身の肖像画は見覚えがあっても、彼の家族は見たことない、という方は多いはずです。どうぞご覧ください。

アダム・リストアンナ・リスト

リストの両親です。父アダムは、ハイドンが永く宮廷楽長を務めたことでも知られるハンガリーの大貴族エステルハージ家の役人。息子フランツの才能に一家の将来を賭け、仕事も辞めて故郷も捨てた、一家の大黒柱としては無謀(?)ともいえる性格でした。息子を世に売り出すことにエネルギーを使い果たしたためか、息子が16歳のとき、旅先で急死してしまいます。母アンナは、伝記ではあまり登場しませんが、ずっとパリに住み、マリー・ダグー伯爵夫人との間にできた3人の子供の養育に関わるなど、リスト家の長老として重要な役割を演じました。リストが55歳の頃まで生きた長寿の女性でもあります。

マリーダグー伯爵夫人と娘クレール

リストの運命の女性。パリ社交界で最高の美女のひとりといわれたマリー・ダグー伯爵夫人です。横にいるのは、リストとの間にできた子供ではなく、夫ダグー伯爵との次女クレールです。

ブランディーヌ・リストコジマ・リストダニエル・リスト

リストとマリー・ダグー伯爵夫人との3人の子供たち。左から、長女ブランディーヌ、次女コジマ、長男ダニエル。長女ブランディーヌは母マリーに似て美しく成長します。フランス人弁護士のエミール・オリヴィエと結婚しますが、長男ダニエル(リストの初孫)を出産後に、26歳という若さで亡くなります。次女コジマは、はじめ父の弟子ハンス・フォン・ビューローに嫁ぎますが、のちに夫を捨ててワーグナーと再婚。後年、バイロイトの女帝として君臨する女傑です。長男ダニエルは末っ子ながら、20歳という若さで病死。3人は、偉大な両親からあふれる感受性と才能を授かるものの、いわば私生児であり、両親の離別などに翻弄され、充分な愛情も注がれず、苦難の幼年期を過ごします。そのせいか姉弟の結束は固く、とても仲のいい姉弟でした。

コジマ・ワーグナー1905 Jacob_Hilsdorf

コジマといえば、この堂々とした姿の方が有名かもしれません。これは、彼女が65歳のときに撮影された肖像写真。ワーグナーの死後、バイロイトを偉大な夫の聖地とすべく、バイロイトの女帝となって、卓越した政治的・音楽的手腕を発揮します。その伝統は、いまも継承されています。バイロイトが今日の威光を留めていられるのは、彼女の功績が大きいといえるでしょう。

カロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人

リストのもうひとりの運命の女性、カロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人。ポーランド系貴族で、祖国の膨大な領地を治める大地主。キエフでリストと知り合い、作曲家としての創作活動に専念すべきとリストを説得して、ピアニストから引退させた立役者であり、リストの後半生に最も大きな影響を持ったパートナーでもありました。読書とタバコを愛する知的教養の塊のような女性でしたが、かなりの変人でもあったようです。

フランツ・リスト1843 ヘルマン・ビオウによるHerman_Biow-_1843

最後は、僕の好きなリストの肖像写真のなかから一枚。フランツ・リスト32歳。ドイツ人写真家、ヘルマン・ビオウの撮影によるものです。